サイズは、径7,5×高さ2㎝です。共箱入りです。使用感はありますが、美品です。蓋裏に花押があります。一連の茶道具はお茶の先生宅よりお譲りいただいたものです。
白雲洞茶苑不染庵 神奈川県箱根町強羅 竣工/大正5年(1916)頃 ★国登録文化財
白雲洞の西側にたつ茶室。寄棟造、茅葺。2畳台目の小間と4畳の付寄、水屋を備え前面に低い土庇を付すなど草庵風の意匠である。設計は近代数奇屋の名匠の一人と言われた仰木魯堂とされる。
白雲洞茶苑は、大正時代のはじめ、利休以来の茶人と称された鈍翁・益田孝 (三井コンツェルン設立者、男爵) によって建設され、箱根強羅の巨岩怪石の間に、深山の趣を保存しつつ山家の風情を濃く設えた白雲洞、不染庵、対字斎の三席の茶室群であり、中でも白雲洞は、翁の創案によるもので、近代数奇者茶人の間に流行した「田舎家の席」の先駆的な作例である。
そもそもの由来は、明治年間より、箱根登山鉄道(当時は小田原電気鉄道)による強羅地区の開発に絶大な協力をした三井物産・益田鈍翁の恩に報いるため、大正3年(1914)、 時の社長・草郷清四郎が完成した強羅公園内に翁の好む景勝地を提供したことに始まる。翁はここに形式的束縛から離れ、「深林中の山人の侘び住まい」を主題として、奇岩を活用した浴室・白鹿湯と野趣に満ちた茶室二庵(白雲洞、不染庵)を建設した。
大正11年(1922)、鈍翁はかねてより交流のあった三渓・原富太郎 (絹貿易で富豪、横浜を復興、美術品収集家) にこの茶室を譲り、三渓はこのとき新たに対字斎を増築した。そして、鈍翁時代からの岩風呂を「白鹿湯」と名付けた。三渓が逝った翌・昭和15年(1940)、三渓未亡人の希望によりこれら三席は耳庵・松永安左衛門 (電力王、松永コレクション創設者) に贈られたこうして茶室は、鈍翁・三渓・耳庵という明治・大正・昭和の3代を代表する3茶人(近代三大茶人と呼ばれる)であり、かつ明治・大正・昭和の日本経済の発展を推進してきた稀代の経済人たちに継承され、その遺構がここ強羅公園に現存している。
不染庵
白雲洞茶苑は、箱根強羅の巨岩怪石の間に、深山のおもむきを保存して、見るからに山家の風情の濃い茶室群です。 ここは大正時代のはじめ、利休以来の茶人と称された鈍翁・益田孝(三井コンツェルンの設立者で男爵)によってはじめられ、特に白雲洞は、翁の創案になる田舎家の席として貴重な茶室とされています。大正11年(1922)、この茶苑は三渓・原富太郎(横浜の富豪で美術品収集家として著名)に譲られ、この時三渓はあらたに対字斎を増築しました。 昭和15年(1940)、茶苑は再び原家より耳庵・松永安左衛門(電力界の重鎮、松永コレクション創設者)に贈られ、こうして茶室は、明治・大正・昭和と3つの時代を代表する3人の茶人の間に伝えられてきたものです。
二畳台目に四畳半の寄付が付属し、この寄付は相伴席の機能を、あわせ持つ構成です。
外の土廂を低く長く作り、席内の明るさを防いでいます。このため、「にじり口」は不要となり廃され、また天井に栗材のへぎ板を張って山家の風情を濃くし、その張り方も伝統的手法を脱しているなど、自由な工夫が席の細部にまで散りばめられています。